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第四章 ユラギハメザメ 1

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 ゆっくりと、日が暮れていく。窓から差し込む日差しはどんどん深く淡くなり、影は長くなる一方だ。化学準備室の中には輝也のいれた香ばしいコーヒーの匂いが漂い、合計三つのビーカーが湯気を湛えながら黒い水面に天井を映していた。
 夕陽に赤く染まった銀髪を揺らし、啓が口を開いた。
「何から話せばいいのかな?」
 啓の正面には輝也、隣りには透海が座っている。
 あの後、気が付くと彼らは異変が起こる前と全く同じ状態に戻っていた。吉野和臣さえもが普通に教室に居て、透海はひどく驚いたものだ。――結局何がどうなっているのか。昼休みも透海は啓を連れて化学準備室に来たのだが、部屋の主の輝也が不在で鍵がかかっていたため、結局放課後まで待たざるを得なかったのである。
「洗いざらい、吐いて」
 きっぱりと透海に言い切られ、啓はため息をついた。
「君、教室でのキャラクタと大分違うんだね。こっちが素?」
「残念ながら、その通りよ」
 少し大人びた、知的でクールな少女。透海のクラスでのイメージはそのようなところだ。だが、今の彼女は違う。感情を露わに自分に迫る彼女は、年齢相応で可愛い。啓はそう思った。そして、素直に口にする。
「残念じゃないよ。生き生きしていて、いいと思う」
「話を逸らさないで」
 透海は彼を遮った。
「とにかく、説明してよ」
「別に、僕も全てを知っているわけじゃないんだけどな」
「えっと」
 輝也は軽く頭をかきながら口を開いた。
「少なくとも僕らより君の持っている情報量は圧倒的に多いはずだ。君の判断で、順を追って説明してもらえるとありがたいな」
「……おっしゃる通りですね」
 啓の白い指がビーカーを取り上げ、その中身を軽く啜った。ふう、と息をついて口を開く。
「この世界は、夢なんだ」
「……は?」
 透海はきょとんとした。
「ちょっと待って。夢って、どういうことなの?」
 啓は軽く両手を広げてみせた。
「太陽系第三惑星地球。それは既に廃棄された星だ」
「えっと……じゃあ、ここは?」
 透海が地面を指差す。啓は唇の端を持ち上げた。
「だから、夢。正確にいうと――『ノア』の作り上げた『仮想世界(ヴァーチャル・リアリティ)』さ」
「『ノア』って……ノアの方舟の、あれ?」
「そう」
 啓はうなずく。
「かつて」
 吟遊詩人が何か歌を口ずさむような調子で、彼は言葉を紡いだ。
「地球は滅びてしまった」
「……は?」
 透海は眉を顰める。輝也は腕組みをしたまま、口を挟まない。
「何を言ってるの?」
「事実だよ。歴史さ」
「地球が滅びた……って、でも私たちは」
「地球に生きている。そう思っているよね」
 ……つまり、そうではないと啓は言いたいのだろう。このひと、頭大丈夫かしら。透海は不安になって輝也の横顔を見るが、彼は真面目な表情で啓の言葉に聞き入っているようだった。
「『ノア』っていうのは、人類最後の砦なんだよ。滅びに瀕した人類がその文明の粋を集めて作った方舟」
「……つまり」
 透海は彼の言葉を理解しようと努めた。
「地球から脱出するために作られた、宇宙船ってところ?」
「そういうこと。正しくはこの船を制御するメイン・システムが『ノア』と名付けられたんだ」
「で、貴方は一体誰?」
 改めて、透海は尋ねる。「エーアイ」だの「ユダ」だの、呼び名が多すぎて良く分からない。
「僕は」
 啓はその掌を自分の胸に押し当てた。
「僕は『ノア』の中の人工知能、つまり『エーアイ』。そのほかのいろんな呼び名は、まあ気にしなくていい」
 輝也が口を開いた。
「確認したいんだけど、僕たちが今生きている世界は『ノア』というコンピュータが作り上げている『夢』だって、君はそう言いたいんだね?」
「そう。その通りです」
 啓は満足げに頷いてみせる。輝也は眩暈を感じたかのように、手を軽く額に当てた。ひんやりとした感覚が、これは現実なのだと彼に思い知らせる。彼は輝也のそんな様子には頓着せず、淡々と話を進めた。
「当時、地球上にいた人類はかろうじて数億――彼らのうち一億人のデータが『ノア』に入力され、数多の受精卵が凍結され積み込まれました」
「え?」
「その一億人は、全て寿命を全うして既に『ノア』の内部世界からは消去されています。その代わり、彼らのデータは受精卵――いわゆる実存人格の生活を補佐するための擬似人格を構成するための基本パターンとして使用されているんですよ」
「……もう分からなくなった。透海ちゃんは?」
「全然わからない」
 荒唐無稽すぎる――それでもとりあえず最後まで聞いてみよう。他に、今日起こったできごとを説明できる者はいないのだ。
 啓は困ったような表情をした。
「ええと、どう言ったらいいのかな……この船には何十億という凍結受精卵が眠らされている。凍結している意味は分かりますか?」
 輝也はあてずっぽうに、それでもすらすらと答えてみせた。
「細胞において生体活動を担う酵素タンパクの活性を低下させることにより、相対的に受精卵に流れる時間を遅くする」
「そう、その通りです」
 輝也にあててもらえたのがよほど嬉しかったのか、笑みを浮かべて彼は頷いた。
「それにこの船は大体光速の九十七パーセントくらいの速度で動いているから、ただでさえ内部時間の動きは遅い」
「それで? 地球のように人間の生息に適した惑星を探しながら旅をしている、ということ?」
「それに近い。安っぽいSFみたいだと思うかもしれないけれど、事実なんだから仕方ないんです」
 啓はそう言って肩をすくめた。透海はぽかんと口を開けていた。無理もない。真実を知らないものにとって、現実はあまりにも荒唐無稽だ。
「受精卵は凍結されているんだけど……それでも、彼らは『夢』を見ている。細胞表面に微弱な電流が流れていて、それを『ノア』が拾い上げ『仮想現実』に反映するんだ。彼らの人格は夢の中でゆっくりと一生を過ごしているというわけ」
「夢……?」
「凍結して時間の流れを遅くらせてみても、やはり莫大な時間が流れているわけでね……どちらにせよ、夢を見ることのできない受精卵は徐々に死んでいく。何故かは僕には分からないけれど、同じ保管条件にあっても生存できなくなっていくんだそうだよ。あと、夢の中で死んでしまった受精卵もやはり死を迎えるらしい」
「死んだ卵はどうするの?」
「捨てる」
 啓はきっぱりと言った。
「使えないものを積み込んでおく余裕はないから」
「…………」
 透海は肩をすくめてうつむいた。
「今までに死んでしまった受精卵が最近二十億を越えたから……残りあと二十億ってところかな。これがゼロになったらこの旅もおしまい。人類の本当の滅亡ってわけだ」
 穏やかならぬことを言いながら、啓は微笑んでいる。
「夢を見ている受精卵の数は、今ちょうど五億くらい」
「五億?」
 鸚鵡返しに呟いた輝也ははっと顔を上げた。
「世界人口は今、六十億以上いるはずだけど……」
「そうですね」
 啓は頷く。
「つまり、五十五億人は受精卵の夢――すなわち実存人格じゃない訳です。『ノア』がかつて入力されたデータや、過去にあった実存人格を元にアレンジした、擬似人格って訳」
「…………」
「大丈夫」
 啓は透海の肩にぽん、と手を置いた。この感触もきっと「ノア」が作り出したものなのだろう――ぼんやりとそう考えたあと、透海は愕然とした。いつの間にか、彼の言うことを信じているではないか。信じるまでには至らなくても、そういうこともあるのかもしれないと――現実の持つ可能性の一つとして考えてしまっている。彼の言葉を否定する要素が何もない。いや、彼女は本能的に彼の話を受け入れているのだった。彼女の存在が、そもそもそのように作られているのかもしれない――。
「『アーク』の『コア』は皆実存人格だ。つまり、君も受精卵の見ている夢の産物ってわけだよ」
「『アーク』? 『コア』?」
 啓は輝也に向き直った。
「彼女は『アーク』に乗って敵と戦っていることを『夢』だと認識していたようですけど」
 啓は微笑む。
「それはちょうど逆だったわけですね」
「あ……」
 彼女の語っていた青く煌く機体は「アーク」と呼ばれるものらしい。彼女はその機体の「コア」――パイロットのようなものだろうか? 彼女はそれを操り敵を殲滅している。……敵?
「敵って何なんだい? それに、その戦闘に破れたら彼女はどうなる?」
「敵については」
 啓は首を横に振った。
「言えません。それと、もし負けたら、の話だけど」
 透海の顔を啓の赤い眼差しが射る。
「君が――君たちが負ければ、『ノア』は消滅する。この夢の世界ごと、ね」
「…………」
 透海は絶句した。
 輝也もまた衝撃を受けたが、ふと新たな疑問がわいた。――透海が「アーク」の「コア」だというなら、一体自分は何なのだろうか。何故、彼女を助けることができたのか。自分には、別に何か特別なものがあるわけではない。空を飛べるわけでもないし瞬間移動ができるわけもない。死んだ人間を生き返らせることができるというのなら――それは両親が亡くなった時にとっくにやっているだろう。透海のように「アーク」の「コア」として「敵」と戦っているわけでもない。それなのに、彼は透海を助けることができた。不思議だった。一体自分は何者なのだろう。
「……というわけ。分かってもらえた?」
「…………」
 透海は呆気にとられたように目を見開いて、絶句していた。無理もない。視線があうと、透海は輝也に尋ねてきた。
「輝也さんはこの話、信じる?」
「幽霊と同じ」
「……そうね」
 透海は疲れた表情で肩をすくめた。――信じるか信じないかではない。事実は一つで、それは変えようがない。そして、我々には事実がいずれなのかを判断しようがない。
「じゃあ、別の質問」
 透海はようやく飲める温度になったコーヒーに口をつけた。
「……輝也さんは、この話を事実だと思う?」
「…………」
 輝也は困ったように首を傾げる。啓はそんな彼を面白がるような表情で見遣った。その視線に気付き、輝也が啓に視線を投げる。
「……アンフェアだね」
「どういうこと?」
「僕らは夢の住人だって言うんだろう? だったら確かめようがないじゃないか」
「少なくとも、北原さんには確かめられますよ」
 啓が口を挟んだ。
「北原さんが『ディープ・ブルー』の『コア』として覚醒しているときに見ている光景。それは現実ですから」
「それが現実だって、どうして言えるのよ」
「僕がそうだと知っているからさ」
 啓は少し謎めいた微笑を浮かべた。
「別に信じてもらう必要なんてこれっぽっちもない。ただ……」
 赤い瞳が透海をじっと見つめる。
「君は少し変わった『コア』なんだ。だからこれからも」
「これからも?」
「さっきみたいなのに狙われるかもね?」
「……やだ」
 啓は冗談のつもりだったのかもしれないが、透海は心底嫌そうにつぶやいた。
「今回は僕も油断していた。次からはもっと気を付けるよ」
「……それが、あなたの仕事だから?」
「…………」
 その通りだ。その通りなのだが――なぜか、啓は頷きたくなかった。奇妙な感情。
「そういえば」
 輝也は啓に尋ねた。
「吉野君だけど、さっき普通に見かけたよ。彼は一体どうなっていたんだい?」
「彼ですか」
 啓は軽く左手をひらひらと胸の前に翳して振った。特に意味のある行動ではないだろう。
「彼は擬似人格です。それも、『ノア』のメモリのかなり辺縁にある。だから、外部から侵入したプログラムに感染しやすかったんでしょう。『ディープ・ブルー』が破壊した『敵』の破片が感染源と考えられています」
「……じゃあ」
 透海が顔を上げた。
「これって、私の自業自得ってこと?!」
「いや」
 啓は苦笑した。
「最初の戦闘のときだったからね。あの時君はちゃんと覚醒してはいなかったよ」
 輝也が片眉を跳ね上げた。
「さっきも言っていたけど、透海ちゃんが特別な『コア』だって……どういうことなんだい?」
 啓が輝也に向き直る。
「ふつう、『アーク』の『コア』は適性の高いものから『ノア』が選別して任命していきます。たいていはハイティーンの少年少女ですね。ただ『ディープ・ブルー』はちょっとくせのある機体で、今までなかなか相性の合う『コア』が見つからなかった。それに最近まで『アーク』は四機あったから、十分戦えていたし……でもこの間一機やられてしまって、僕が『ノア』に何とか選び出してもらった『ディープ・ブルー』向きの『コア』が、北原さんだったんですよ。それなのに……」
「それなのに?」
 透海が先を促す。啓はうつむき、彼女を見ていなかった。
「『ノア』は、何故か北原さんを『コア』に据えるのを嫌がった……。僕が無理やり北原さんのディレクトリに干渉して、ようやく下位レベルの意識が機体に繋がったくらいだったしね。それでも『ノア』のサポートが足りないから、北原さんは『コア』としての自分を自覚できなかった」
「『ノア』が嫌がる? それって……」
 輝也の言葉を遮って、啓は声をやや大きくした。
「今まで言わなかったけど、一番不自然なのは貴方の存在なんですよ。時任先生」
「え?」
 輝也だけではない、透海も驚いて声をあげた。啓は真顔でじっと彼を見つめる。
「擬似人格ではない。実存人格かというとそれも良く分からない。『ノア』に問い合わせても回答を拒否される……」
 赤い眼光が鋭さを増した。
「貴方は一体、何者なんですか……?」