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第二章 ユメハカゲロウ 3~5

  3

 スーツに身を包んでオフィス街を闊歩していた(かたびら)沙代子(さよこ)は、進行方向に佇む少年に気付き、軽く眉を寄せた。少年は黒い学生服を着ていて、それは銀髪と白い肌にとてもよく映えていた。彼女は内心思う――本当は、色素をまとうことだってできるはずなのに、わざとらしい。
 沙代子は勤め先の銀行からちょうど帰宅するところだった。彼の目前数メートルに立ち止まり、長い髪をゆっくりと手で払う。
「こんなところでどうしたの? 『エーアイ』十三号?」
「その呼び方はやめてほしいな」
 少年は苦笑して進み出た。
「僕にはもう、久遠啓っていう名前があるんだからね」
「……そう」
 沙代子は無表情に啓を見つめる。
「それで、何の用?」
 啓はもまた、表情を消した。冷ややかな声で、事務的に告げる。
「管理プログラム一三四二にデータ検索の依頼だ」
「……お互いさまね」
 沙代子は呟いた。
「私にも、帷沙代子っていう名前があるのよ」
 啓は彼女の台詞を無視して言葉を継いだ。
「検索して欲しいデータの名称を言うよ」
「ええ」
 沙代子は頷く。
「名前は時任輝也。年齢は二十代後半で××市在住」
 掌に収まるほどの小さな機械を取り出した沙代子は言われたとおりの情報をノアに送り、データの送出を依頼した。彼女のようにこの世界の随所に配置された管理プログラムは、こうしてノアに保管されているデータを時と場合に応じて検索することができる。
「……『エーアイ』の貴方がコンタクトできないデータなの?」
 信号を送信した沙代子は、眼を上げて不思議そうに尋ねた。啓は軽く肩をすくめる。
「そういうことになる。僕にもよく分からないから、わざわざ君に検索を依頼しているんだよ」
「貴方、今は『ディープ・ブルー』付の『エーアイ』でしょう? その人と貴方にどういう関係が?」
「彼はその『コア』の従兄なんだ」
「……そういうこと」
 沙代子は頷き、手の中の機械を見つめた。
「検索が終了したわ」
「そう。それで?」
 啓の赤い瞳が鋭くきらめく。しかし、沙代子は首を左右に振った。
「『ノア』にデータ送信を拒否された」
「え?」
 啓の眉が顰められる。
「何だって? どういうこと?」
「分からないわ。私もこんなこと初めてよ」
 沙代子は額を軽く指で押さえる。
「でも……『ノア』に拒否されたのは確実。データが存在しないわけではないみたいだけれど、私たちに見せたくはないってことみたい」
 「ノア」はコンピュータであるが、非常に複雑かつ精密な構造をしており、それは人間の脳にも劣らないどころか、むしろそれを超えた存在といわれている。人間の精神というものが脳神経回路とそれに打ち出されるパルスによって形作られるものだとするならば、「ノア」が人間と同じような――もしくはそれ以上に複雑な――精神構造を持ち合わせたとしても全く不思議はない。「ノア」の回路の一部である「エーアイ」、つまり人工知能や、他の管理プログラムまでもが擬人化され得るということは、それだけ「ノア」の精神機能階層が多重構造をなしていることを示している。
 ――何しろ、「ノア」は人類を運ぶ方舟なのだから。
「そう。それならいいよ」
 啓はそうつぶやくと沙代子に背を向けた。
「『ユダ』!」
 沙代子は啓の背中に声をかける。
「『ディープ・ブルー』はちゃんと使い物になるの?」
「…………」
 啓は振り返った。唇を笑みの形に歪める。そこから生み出された声は、ひどく無機的だった。
「さあ、ね」
 彼らの周囲にいた人々は、彼らの会話の異常さに全く気づくことがなく、ただ普通に――呆れるほど普通に、日常が流れていった。

  4

 真空を漂う機体の残骸。それは、先の戦闘で「ディープ・ブルー」によって粉砕された敵機のものである。その細かな破片が不意に、意思を持つ生物であるかのように動いた。目指す方角は――「ノア」。
 星すら見えない常闇の中、巨大な宇宙船が進んでいく。虚無の洪水の中を進む、それはまさに方舟。
 ――その方舟に眠る者たちの夢は、未だこの虚空に響かない。

 透海のクラスメートである吉野和臣(よしのかずおみ)は、テレビのバラエティ番組を見ていた。途中から強烈な眠気に襲われ、体がぐらりぐらりと揺れている。
「和臣、どうしたの?」
 母に尋ねられてもうまく返事ができない。
「いや……別に」
「別にって言ったって」
「部活で疲れてるんだよ」
「だったら、さっさと宿題やって早く寝なさいよ」
 母は呆れたように肩をすくめて台所へと向かった。
 ゆらゆらと揺れていた和臣の体が一際大きく傾ぎ、バチッ、と全身に電流のようなものが走る。
「…………あ」
 和臣の半開きになった唇から、音の羅列が飛び出す。
「侵入者確認、障壁突破、強制消去不能、制御不全、切断不能、交信断絶、パルス異常、データ改竄、データ消去、データ置換、デー、改竄、デ、タ消、去ータ置、換改竄消去置換改竄消去置換改竄消去置」
 彼自身にも理解できないその言葉たちをぶつぶつとつぶやき続け、やがて和臣の体はぴたりと静止した。
 一瞬の静寂。そして、彼はゆらりと顔をあげた。
「……侵入完了」
 そうつぶやいた顔は全くの無表情で、まるで機械のようですらある。
「和臣、何か言った?」
 だが、母が顔を覗かせたときには先ほどまでの気だるげな表情に戻っていた。
「いや。空耳じゃないの?」
「いい加減、そろそろ勉強するのよ」
「うん」
 和臣は――和臣の姿を保った「それ」はゆっくりと立ち上がった。自分の体を確かめるようにじろじろと見て、やがて会心の笑みを浮かべる。
「辺縁のメモリにある人格で、こんなに『コア』に近いものがあったとはね」
 口の中でぶつぶつとつぶやく。
「『ノア』のセキュリティも大したことはないな」
 和臣は窓から夜空を見上げた。そこには星は一つも見つからず、それに満足したように彼はにっと笑う。
 ――未だ、誰もこの異変には気付いていなかった。