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第二章 ユメハカゲロウ 1~2

  1

 彼女は虚空を舞っていた。
 何物にも繋がれず、何物にも縛られない。
 自由だ。自分は、こんなにも自由。
 遮るものを破壊し、そらを(ひら)く。
 軽い。
 どこまでも上っていく。どこまでも、どこまでも――
 だが、
 光は、
 やがて闇に変わった。
「…………?!」
 気が付くと、透海は数学の授業を受けていた。
「あれ……」
 思考が一度断ち切られた後に繋ぎ直されたような、そんな不自然な感覚が頭の中にぼんやりと残っていて、透海は眼を瞬く。誰かに何かを話しかけたはずなのだが……彼女の左隣では転校生の久遠啓が手早くノートを取っている。彼女の視線に気付いたのか、啓が眼を上げた。
「どうしたの? 北原さん」
「え、ううん、別に」
 手元に眼をやると、写した覚えもない数式が並んでいる。
「…………」
 透海はたまに授業中でもぼうっと自分の思考にふけっていることがあるから、これは特に驚くことではない。驚くことではないのだが……。
 ――この世界って「本物」なのかなあ。
 自分がかつて投げかけた問いが、脳裏に蘇ってくる。結局その問いの答えは見つからずじまいで今に至っていた。――どうしてこんなことを突然思い出したのかしら。透海は苦笑を浮かべた。そんなこと、どうだっていいはずなのに。偽物だって本物だって、現実に変わりはないのに。この現実から、私は逃れられないのに……。
「北原」
 眼を上げると、数学教師が彼女の目の前に立っていた。
「はい?」
「次の問題を当てたんだが」
 苦笑しながら促され、透海はノートに眼を落とす。難しい問題ではない。透海はうなずいた。
「……はい」
 立ち上がり、黒板の側へと歩み寄った。手にしたチョークが黒板とぶつかり、ぽきりと折れる。光を浴びて、ひらひらと舞い散る白い粉。
「…………」
 透海はその破片をしばらく眺め、新しい白いチョークを手に取った。数式を幾つか書き連ね、答えを算出する。透海は自分の書いた式を一通り確認し、やがて身を翻した。
「…………」
 彼女はどこか疲れたような表情をしているが、数学の問題ひとつを解いたためではないだろう。その様子を眺めていた啓は、小さくつぶやいた。
「彼女はとても不安定だ。……何故だろう?」
 「アーク」の「コア」となる人格には、精神的に安定していることが非常に重要とされる。非現実的な戦闘シーンに突然送り込まれるのだから、当然のことだった。しかし、彼女の精神は繊細で、どこか不安定だ。何故、「ノア」は彼女を選んだのか――選んだにも関わらず、なかなか「コア」に据えようとしなかった理由は、何なのか。
 気になる点は、もう一つ。彼女の従兄、時任輝也だった。
「何故、僕に彼のデータソースが見えない……?」
 啓は苛々とした口調でつぶやいているが、周りの人間には聞こえていない。聞こえるはずがない。
 啓は嘆息した。
「全く、この『世界』というやつは……」
 矛盾とレトリックに満ちたこの虚構の「世界」。「ノア」はただただそれを維持し続けている。それが本当に意味のあることなのかどうか、啓には分からなかった。「ノア」そのように設計されているから、といえばそれまでなのだろうが。啓自身、そう作られているからというだけの理由で「ディープ・ブルー」の「エーアイ」になったのだから。
「落ちたわよ」
 啓の手を離れて足元に転がった消しゴムを、席に戻る途中の透海が拾い上げた。
「はい」
「……ありがとう」
 啓はにっこりと微笑むと消しゴムを受け取った。そっと、透海の指に触れる。透海は明らかに眉をひそめ、その指先を見遣った。やや過剰に接触を嫌うんだな、と啓は思った。
「随分冷たい手だね」
 啓が囁くと、透海は肩をすくめた。
「冷え性なの」
「へえ」
 指先の残像を味わおうというように、啓は唇に触れる。一瞬感じた冷たさは、もはやどこにも残っていなかった。

  2

 放課後、職員室に戻った浅川に輝也が声をかけた。
「浅川、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
 デスクの上にどさりと重たげなファイルを置いて、浅川が振り向く。
「透海ちゃんなら元気にしてるぞ」
「北原って呼べ」
 輝也は眉を顰めた。
「僕だってここじゃ北原君って呼んでるんだから。変に目立つことになったら彼女が可哀相だ」
「わかったわかった」
 いつになく強い口調の輝也に、浅川は両手を挙げて降参のポーズをとった。
 彼は担任になる前から透海のことを知っている。というのも、輝也の数少ない友人の一人である浅川は、何度か彼の家に――それは未だ輝也が北原家と共に住んでいた頃であったが――遊びに行ったことがあるからだ。大人びた眼差しと子供っぽい瞳の輝きのコントラストが印象的だった彼女は、そのときまだ小学校低学年だった。知的で、好奇心に満ち溢れていて、頭の回転が素晴らしく早い。成長が楽しみだな、と思ったのを覚えている。
 その後はしばらく会わなかったが、その間に何かが――彼女を変える何かがあったのだろう。高校に入学し、教え子として再会した透海。その眼は、変わっていなかった。そして頭の良さも相変わらずだ。しかし、普段の彼女の表情には色がない。自分を必死で押し隠している、本来の自分を閉じ込めている、そんな風に見えた。教室で見る透海は大抵窓の外を眺めていて、そんな時は大抵無表情だ。友達と話しているときは自然な表情と物腰だが、それなりに生徒を見てきた浅川はすぐにその嘘に気付いた。まるで作り物だ。彼女はいつも、心の底から笑っていない。
 ――こいつはそれにちゃんと気付いてやってるんだろうな? そんなことを思いながら浅川は輝也の顔をじろじろと無遠慮に眺めた。
「……で? 聞きたいことって何だ?」
「今日来ていた転校生のことなんだけどね」
「転校生? ああ、久遠か?」
「そう。あの子の申し送りを見せて欲しいんだ」
 転校前の学校から送られてきているはずの書類は、担任の浅川が持っているはずだ。
 輝也はあの少年が気になっている。通りすがりに投げかけられた訳の分からない言葉も勿論だが、その他にも――何となく理由のつかない胸騒ぎ、と言えばいいだろうか。
「ほらよ」
 浅川はデスクの中でも一際乱雑なエリアから、意外なほど早く目的の紙を引っ張り出した。そういえば大学時代に輝也が浅川の下宿を訪ねたときも部屋の中はひどい有様だったが、しかし彼は驚くほどそれぞれの物の在処を把握していた。
「……ありがとう」
 輝也はそれに眼を通すが、大したことは書かれていない。成績はいたって普通、やや欠席が多いが、そのことについて特に言及はない。眼を引いたのは彼の両親のことだった。父親は海外に単身赴任中。母親は東京に生活基盤を持つインテリアデザイナー。高校入学後すぐに転校したのは、それまで啓の面倒を見ていた母方の祖母が亡くなったせいでった。現在は、以前家族で暮らしていたマンションに戻り、一人暮らしをしているらしい。高校生にしては珍しい境遇だろうが、だからといってどうということはない。輝也はそう思った。
 家庭環境がその家庭の構成員に影響を及ぼすのは事実だ。だが、その影響の及ぼされ方は各個人による。全く同じ家庭環境で育った一卵性の双子でさえ、別の性格を持ち得る。それならば結局のところ、個々のキャラクタこそが本人のアイデンティティといっていいのではないか。バックグラウンドやステータスや、そんなものはキャラクタに比べれば大した意味はないと思う。むしろ、全ての要素はキャラクタに包含されているといっていい。
 たとえば、両親の死が輝也に与えた影響など彼にはわからない。それは他人が彼を見て判断することだし、もし自分の中に欠陥があるとしてもそれは自分のせいだと思う。決して両親を失ったからではない。そんな同情は彼には許し難い。
「ありがとう」
 輝也は書類を浅川に返した。浅川はそれを受け取り、悪戯っぽい表情で微笑む。
「久遠って、すごい美男子だよなー」
「……そうだっけ?」
 顔――あの銀髪と赤い目に気を取られて、顔立ちまでは気が回らなかった。
 浅川はわざとらしくため息をつく。
「嫌だねえ自分も顔がいい奴は」
「何を言ってるの?」
 輝也は苦笑した。学生時代、女性に圧倒的に人気があったのは人当たりの良くまめな浅川だった――それだけ、浅川は努力をしていたのだとも思う。今も浅川にはずっと交際している女性がいるが、輝也にはいない。何故かと聞かれても良くわからない。あまり他人に執着しない性質なのだろうと思っている。人は、いつかいなくなるものだ。自分も、他人も、それは同じ。すべては陽炎の揺らぎのように、儚いものだ。
 浅川は椅子に深く腰掛け、背もたれをぎしぎしときしませた。
「女子たちは目をつけてるみたいだぜ?」
「気が早いね。皆、今日初めて彼に会ったばかりで、どんな人かなんてわからないんじゃないの?」
「顔なんて見たらその瞬間わかるだろ?」
「評価基準が単純でいいね」
 淡々と言う輝也に、浅川はわざとらしく顔をしかめた。
「嫌味なコメントだなあ。……あ、そうそう」
「何?」
「この久遠啓って子な。とう――北原の隣りに座ってるんだぜ」
「……そう」
 輝也は特に表情を変えることはなかった。ただ、胸騒ぎが少し強くなったような気がする。――息苦しさをおぼえて窓の外を見遣った。グラウンドではサッカー部や野球部が練習をしている。その横を帰宅していく男子生徒の集団。
「…………」
 輝也はそれを見るともなしに見ていたが、ふと一点で視線が止まった。一際目立つ銀髪。それは学生服と綺麗なコントラストを成していた。
 輝也の視線の先で、彼はゆっくりと振り向く。直線距離は百数十メートルはあるだろうに、彼は輝也をその赤い瞳でじっと見つめていた。確実に、輝也をとらえている。
「…………」
 一瞬対処できずに輝也がそのまま彼を見ていると、彼の方から視線を逸らした。――次の瞬間、
「え?」
 驚きが小さく声に出る。いない。一瞬前までは確かにあの男子生徒の集団の中にいたはずなのに、いない。周りの者も誰も気がついていないのだろうか。誰も啓を探そうとする様子もなく、戸惑う様子もない。
「…………?」
 見間違いだったのだろうか。輝也は窓から離れた。彼のことを考えていたせいで、何となく彼の姿が見えてしまったのだろうか。それだけだろうか……。
「ま、いいか」
 輝也は肩の力を抜いた。少し疲れているのかもしれない……。
 ふと、透海のことを思う。今日、彼女は家に来るだろうか。来て欲しい。何でもいい、他愛のない話をして、一緒にコーヒーを飲んで過ごしたい。そして、もし聞くことができれば――あの少年のことを、聞いてみたい。いや、聞きたくない。一体、自分の本心はどちらなのだろう。わからない。
 ――彼のことを、暴いてはいけない。彼の脳裏で誰かがそう、警告した。