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第三章 カゲロウハユラギ 1~3

  1

 週明けの月曜日、いつものように浅川はクラスの出欠を取っていた。
「吉川竜太」
「はい!」
「吉田佳代」
「はい」
「吉野和臣」
「はい」
 ――ぴくり、と啓は小さく反応した。隣に座っている透海は、彼の端正な横顔に奇妙な表情が浮かんでいることに気付く。
「どうしたの? 久遠君」
「……何でもないよ」
 啓はにこりと微笑を浮かべたが、その赤い瞳はほとんど笑っていない。だが、透海はそれ以上問い詰めるつもりはなかった。
 この風変わりな転校生が来て二週間。彼らは意外に親しくなっていた。そこそこ仲の良い友達はいるものの、大勢で騒ぐのが苦手な透海と、誰とでも仲良くするくせに深い付き合いをしようとはしない啓。周りから見れば、似たもの同士のようにも見えるのかもしれない。
「ならいいけど」
 透海はあっさりとそうつぶやき、黒板の方に視線を戻した。
 そろそろ夏の期末テストの時期で、浅川はそのことについて話している。透海は興味なさそうに視線を動かし、窓の外に視線を投げた。梅雨の時期ではあるが、今日はよく晴れていた。青い空を雲がゆったりと流れ、高台にあるこの校舎からは、きらきらと光る海が眺められる。そろそろ梅雨もあけるのかもしれない、と透海は思った。
「大体な、一年生の間の成績が三年間ずっと固定されるんだ。例外もなくはないが、今のうちからしっかり勉強しておかないと、二年になってから、三年になってから頑張り始めても追いつくことはできないぞ」
 浅川の言葉を聞いてはいるし、きっとそうなのだろうな、と思う。だが、透海にはあまり関係のある話とは思えなかった。勉強は嫌いではない。知的好奇心を満たしてくれる作業としての勉強は、どちらかといえば好きな方だと思う。しかし、そこに別の要素が入り込んでくると――成績だとか、順位だとか――それに付随して、たくさんの嫌なことが混じってくる。透海は好きで勉強しているだけなのに、何故か時にそれが人間関係の障害となる。透海には理解できない仕組みだ。成績など、その人間を表現する一つのパラメータでしかないのに。
 中学の時、誰もが答案の端を折って点数を隠していた。そうする必要性を感じなかった透海は折らないでいたが、それは間違いだった。ある時「見せびらかしているのだろう」と言われて彼女は驚き、そしてようやく気付いた。良い点数であればあるほど隠さなければならない――そういうものだったのだと。
「おい」
 取り留めない思考に耽っていた透海は、啓の声によって唐突に現実に引き戻された。
「奇襲でもするつもりか?」
 澄んだ、それでいて鋭い声。彼は肘を机について手のひらで頬を支えながら、じっとある一点をにらみつけていた。それは、吉野和臣の座る方角。
「……は?」
 周囲から驚きに満ちた視線が注がれるのにも構わず、啓はさらに言葉を重ねた。
「ここに『ディープ・ブルー』の『コア』がいるのを知って干渉してきたのか?」
「お、おい」
 浅川が焦ったように口を開閉させる。
「何言ってるんだ、久遠?」
 啓はその赤い瞳を剣呑に細めた。口早に告げる。
「仮想ディレクトリ遮断、擬似人格一時停止、実存人格スリープモード起動要請。エマージェンシーコードA108。『アーク』に『コア』の待機・召集を!!」
「ちっ」
 和臣が、まるでばね仕掛けの人形のように跳ね起きる。

 ――瞬間、和臣と透海、そして啓を残して教室が消失した。暗く、そしてどこまで広がっているのかも分からないほど広い空間。床も天井も、判然としない。現実とは思えない、不可思議な空間だった。
「な、何なのよ?! 久遠君、これどういうこと?!」
 啓は透海の声も無視して言葉を結んだ。
「以上、『エーアイ』十三号、『ユダ』より、『ノア』への警告を終わる」
 銀髪がふわりと揺れ、彼は顔を上げる。その唇には、紛れもない笑みが浮かんでいた。
  
  
  2

 その時、輝也は職員室にいた。ふと、耳鳴りに似た不快な音がして――瞬きをする。
「え?」
 目に入った光景が信じられず、再び瞬き。だが、それは変わることなどなかった。職員室ではない。ではどこかと言われると、輝也には分からない。屋外ではないことは確かだろう。黒に近いくらいに暗い灰色の床は、奇妙な光沢を持っている。壁際には見たこともないものが――恐らくは機械が、ずらりと並んでいた。天井は高く、照明は見当たらないのに辺りは薄ぼんやりと明るかった。
 一歩踏み出そうとして、輝也は自分の足が僅かに床から浮かんでいることに気付いた。宙を蹴って、歩いている。
 なんだ、これは。意味が分からない。
 辺りにひとけはなく、耳が痛いほどの静寂に囲まれている。彼は自らの声で敢えてそれを破った。
「……何だっていうわけ?」
 予想はしていたが、やはり返答はない。
 輝也は辺りを見回し、絶句した。
「これは……」
 彼を取り巻く壁の一方は、外の光景を映しているようだった。そこにあるのは光さえ呑まれそうな、果てしない虚空。
 輝也は呆気にとられながら、そちらに向かった。闇の中に、何かが潜んでいる。メタリックな光沢を持つ巨大なそれは、赤と、白と、緑とに彩られていて――。
「まさか」
 つぶやく。
『最近、白昼夢を見るの』
 透海の言葉を思い出し、輝也は息を呑んだ。夢、なのか。彼女の見ている夢を、自分も見ているのか。
「まさか――ね」
 そう言いながらも、彼は彼女の話に出てきた「青い機体」を探す。だが、見当たらない。
「透海ちゃん……」
 彼女の名を呼んで、輝也は汗に濡れた掌を握りしめた。
 ここはどこだ。あれは何だ。
 そして――僕は、誰だ。
 

  3
  
 教室が、担任が、同級生が消えてしまった――透海は啓に詰め寄る。
「ど、どういうことよ! 説明してよ!!」
「悪いけど、今その暇はないよ」
 啓は視線を和臣に固定したまま、透海を庇うように一歩前に進み出た。
「あとで、詳しく教えてあげる。……本当は、君自身が既に知っているはずのことなんだけどね」
「え?」
 透海は戸惑った。――私が、一体何を知っているというのだろう?
「随分と不完全な『コア』だな」
 和臣は――和臣の姿をとった何者かは、そう言ってにやりと笑った。
「そのくせ、『コア』としては恐るべき能力を秘めている……全く厄介な」
「同感だよ」
 啓はあっさりと頷いた。
「君の侵入経路は大体予想がついている。最初の戦闘のとき、『ディープ・ブルー』はある敵機を大破させた。その破片に乗って、『ノア』への侵入プログラムである君がやってきたのだろう?」
「ちょ、ちょっと待って。『ディープ・ブルー』って」
 初めて啓に会ったとき、確か彼はその言葉を彼女に向かって口にした。それこそが、夢の始まり。
 そして、啓は「戦闘」「敵機」と言った。それは、もしかして彼女の見ている夢の中のできごとをさしているのではないか。
 透海は茫然とつぶやく。
「どうして、久遠君が知ってるの……?」
「どうしてって?」
 啓は少しだけ振り向いた。
「君が時折見ている『夢』。あれはね、『夢』なんかじゃないんだよ」
 透海は立ちすくんだ。――あれが、「夢」ではない? それなら自分は一体何と、どこで戦っているのだ? そして、そういう啓は一体何者なのだ……?
「さて。手間取らないうちに、その『コア』を破壊させてもらおう」
 和臣は一歩前に進み出る。それが自分を殺すということなのだと透海は察して、慌てて一歩あとずさった。
「あまり僕から離れないで」
 啓は透海に告げる。
「君は擬似人格じゃないんだから、リセットして再起動というわけにはいかないんだ」
「あ、あなた、何者なの?」
 今更の疑問を透海は口に出す。
「あなたは、一体……」
「僕は、君を守る」
 啓はもう一度振り向き、彼女を安心させるように穏やかに微笑んだ。赤い瞳に至近距離で見つめられ、透海は思わず息を呑む。だが、彼の薄い唇が紡いだのはその微笑に似合わぬ剣呑な台詞だった。
「君が今死ぬと、世界が滅びてしまうから」
「……は?」
 透海は現実に引き戻され、間の抜けた声を上げた。
 啓は彼女の声には構わず、視線を和臣の方へと向ける。和臣は赤い舌でちろりと唇を舐めあげた。
「戦闘用でもない『エーアイ』が、俺に勝てると思ってるのか?」
「……僕はちょっと特殊性能でね」
 啓は軽く両足を左右に開いた。
「『アーティフィシャル・インテリジェンス・ナンバー・サーティーン』――伊達に裏切り者の『ユダ』の名を冠しているわけではない」
「では、やってみるか?」
「そうしよう」
 啓は、不敵に微笑んだ。