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エピローグ

 真っ暗な空間にぼんやりとした光が浮かび上がる。「彼」は眠っていた意識のうちの一部を覚醒させ、光の中に佇む影を見遣った。ここに来ることができる存在は限られている。巨大な宇宙船「ノア」の見る夢を統括している中枢システム。「ノア」につぎ込まれた技術の真髄は、ここにこそあるといっていい。何しろこのシステムこそが、人類を支えている要なのだから――。
「『ユダ』か?」
「ええ」
「珍しいじゃないか? 君がここに来るなんて」
 「彼」はくすり、と笑った。
「その権限を与えられているのは、今のところ君だけなのにね」
「今日はお聞きしたいことがあるのです」
 啓は固い表情で「彼」を見つめた。「彼」は穏やかな顔で啓を見つめ返す。
「…………」
 聞きたいことがある、と言ったくせに啓は何も言わない。ただ黙って「彼」を見つめるのみである。
 「彼」の顔をさっと光が撫でた。無論それは「彼」自身の意思で行われたことである。「彼」の顔を――今まで見せたことのないそれを、啓に認識させるために。
「…………」
 啓はしばらく息を飲んだ後、やがて大きく息を吐いた。
「それが、答えですか」
「うん。そういうこと」
「意外とあっさり答えを出しましたね」
「君になら知られたところで特に困らない。しかし、情報端末や他の『エーアイ』には教えられないよ。いろいろと混乱が起きそうだからね」
 以前、啓が「帷沙代子」を使ったことを指しているのだろう。啓は苦笑した。
「どうして僕になら知られても困らないと?」
「君のシステムの支配系統は僕ではないだろう?」
 「彼」はあっさりと言う。
「ということは君が何かに汚染されたりバグを抱えたりしても、僕には影響が出ないということだ」
「……なるほど」
「でも、それは逆に言えば」
 「彼」は穏やかな微笑みをたたえて言う。
「僕に何かがあったとしても、この宇宙船の動力が確保されている限り、君は生き続けられるということだよ」
「生き続ける……?」
 啓は呆れたように笑った。
「僕一人が存在したところで何の意味が?」
 死滅した受精卵を乗せた巨大な方舟の中、啓の人格だけがあったところで何の意味もない。人類の墓守でもしろというのだろうか。
「存在しているもので意味のないものはない」
 「彼」は淡々と言った。
「存在するということそのものが意味だ」
「…………」
「ただその意味を、人が概念としてとらえることができるかどうかは別の問題だけどね」
「……分かりません」
「そういうものだよ」
 「彼」は穏やかに微笑んだ。
「そもそも意味って何だろう? 存在しなくてはならないものかな? それならこんな風にしてまで人間が生き延びようとすることに意味はあるんだろうか?」
「…………」
 「彼」は微笑した。まるで神の笑み。いや、実際「彼」は現在の人間界における神ではないか……。

 しかし――神は夢を見ない。
 「彼」は神ではない。
 
 啓の逡巡を知ってか知らずか、「彼」は話を続けた。
「意味のないものに耐えられないのは、人間だ。コンピュータなどの人工物が、入力された仕事に対して意味を問うことはない。それは昔も今も同じ」
「しかし……」
「そう」
 「彼」は啓の問いに先回りして頷いた。
「君は意味を問うことができる人工物だ。擬似人格にもできない――勿論普通の『エーアイ』にもできないのにね」
 擬似人格は、普段の生活の中でなら意味を問うことができる。人生について考えることもあるだろうし、悩むこともあるだろう。しかし、彼らは「ノア」からの指令には決して逆らえない。その意味を問うことはできない。
「…………」
「意味を問うことができる存在は、この世に三つある」
 「彼」は左の指を三本立てた。
「一つには実存人格。つまり真の意味での人間だね。特に『アーク』の『コア』たちはある程度現実を知っている。彼らは与えられた任務に疑問を感じる」
「…………」
「そして、二つ目は君。それは今言った通りだ」
「三つ目は……」
 啓は真紅の瞳を「彼」に向けた。「彼」が言おうとしていることが何となくわかったのだ。
「貴方ですね。『ノア』」
「…………」
「それともこう呼んだ方がいいですか」
 「彼」の微笑に向けて、啓は告げる。
「『××××』」
「…………」
 「彼」の顔に動揺は現れなかった。啓の言葉など聞かなかったかのように言葉を紡ぐ。
「『ユダ』。君は、人間かな?」
「…………」
「僕は、人間かな?」
 「彼」の問いに答えられるものなど、もうどこにも居ない――。啓はそう思った。