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幻想と現象の限度

 ──それは、かすかな違和感から始まった。

 誰かがいない。何かが足りない。
 北原透海は漠然とした不安を感じながらもその正体を明らかにすることができないまま、ぼんやりと前を見ていた。
 英語の授業はゆるゆるとしたスピードで進んでいる。黒板にはいくつかの文法事項が列挙されているが、彼女のノートには書き写すまでもなく、既に同じものが書き込まれている。英語の予習の仕方を教えてくれたのは、……。
 ──あれ?
 透海は首を傾げた。今、私は何を考えていたのだろう。何かを思い出そうと……いや、誰かを?
「北原」
 呼ばれて後ろを振り向くと、クラスメートの篠塚一明(しのづかかずあき)が右手を垂直に立てて自分を拝むようにしていた。
「悪い、今日俺予習忘れたんよ。ノート見してくんない?」
「いいわよ」
 透海は気前よく紀にノートを貸してやり、後ろにひねっていた体を元に戻そうとした。
「…………?」
 また違和感。彼女の席の隣は空席になっていた。教室の中にぽっかりと開いたその空間が、なぜか気になる。
 ──そうだ、確かこの席は転校生のもので……だけどそのひと、転校してきて以来一度も学校に来てないんだ。……名前、何ていったっけ……。
「ねえ」
 透海は振り向いて一明に尋ねた。
「この席の人の名前、何だったか覚えてる?」
「え?」
 猛烈な勢いでノートを写していた一明は、ぴたりと手を止めて顔を上げた。怪訝そうに眉をひそめ、透海を眺める。
「そいつ、一回も登校してない転校生のやつの席だろ? 名前なんか紹介されたことないぜ」
「……あれ? そうだっけ?」
 透海が首を傾げる。その肩を一明は勢い良く叩いた。
「お前、しっかりしろよ!」
「篠塚!!」
 思わず声を大きくした一明に、教師の叱咤の声が飛んだ。
「何がしっかりしろだ、お前こそしっかり授業を聞いておけ!」
「……ふあい」
「じゃあ次の文章は篠塚に訳してもらおうか。さあ、立て」
 のろのろと立ち上がる篠塚に、教室中からくすくすと忍び笑いが洩れる。いつも通りの陽気な雰囲気。くだらないことでも笑いのネタにする、何でも楽しみに変えてしまう、そんなクラスメートたちを透海は彼女なりに好ましく思っていた。だが、今は……。
「やっぱり何か、おかしい」
 ぽつり、とつぶやいた。

 いつ頃から違和感を感じていたのか……帰宅後、透海は自室のベッドに寝転がり、仰向けになって天井を見つめた。もちろんそこに何か答えが書かれている訳もない。
 違和感の正体がはっきりしないのと同じように、時系列もまた曖昧で、まるで頭の中の一部に霧が掛かっているようだと思った。
 たいしたことではないのかもしれない。思いださなくとも良いことのような気もする。高校に入ってから友人も増えたし、勉強にも相変わらず苦労はない。自分はもう、以前のような失敗はおかさないだろう。総じて見て、自分は今しあわせだと思う……。
「…………」
 目を閉じてみる。透海はそうしたまま唇をわずかにうごめかせた。
「そう……思い出せないってことは、きっと忘れていいくらいのことだったのよ」

 ――忘れるってことは少し排泄行為に似ているね。必要なものだけを取り出して記憶し、不必要なものは捨ててしまう。人間の脳は腸ほどそれをうまくやってくれないから、よく不具合を起こすけれど……。そう思うと、時々お腹を下すくらいの不具合は、大目に見てあげないといけないのかもしれない。

「え……?!」
 透海はベッドから勢い良く起き上がった。
「今の、何……?」
 なめらかに、そして淡々と語られた言葉。今、確かに脳裏に浮かんだ。それなのに……それが一体どんな声だったのか、どんな風だったのか、いつどこで聞いたのか、まったくわからない。
「一体何なの?」
 透海は茫然と額に手をあてた。今の言葉……自分の思い浮かべた言葉だろうか。しかし、どこか耳の奥でささやかれたような、そんな心地だった。自分の――記憶?
「だれ……?」
 そのつぶやきに、答えを返すひとはいない。
「あなたは、私に忘れて欲しいの……?」
 先ほどの言葉の主を漠然と思い描き、語り掛ける。
「私は……忘れたいの……?」
 ――そのとき、彼女の右頬をひとつぶの涙が滴り落ちた。
「あれ……」
 こぼれたそれを、手で拭う。何故自分が泣いているのか、その理由はわからなかった。別に悲しいわけではなく、苦しいわけでもない。自分は今、何の悩みもなくしあわせなのに――。
「透海!」
 母の呼ぶ声に、透海ははっと顔を上げた。いつの間にか自室の扉が開いていて、その向こうに母が立っている。
「どうしたの? さっきから何度も呼んだのにぼうっとして」
「ご、ごめんなさい」
 慌てて立ち上がる透海に、母は苦笑した。
「ご飯できたわよ」
「はい!」
 透海は笑みを浮かべる。――だいじょうぶ、こんなに自然に笑えるもの。透海は誰に言い聞かせるでもなく、こころに強く思い浮かべた。

 ふたりでの夕飯を追えたあと、食器を洗っていた母が小さくつぶやいた。
「そういえば、もうすぐ姉さんたちの命日ね」
「……うん」
 透海は静かにうなずく。
「またお墓参り行かなきゃね」
「透海はまだ小さかったから、顔覚えてないんじゃない?」
「そうだね。でも、お見舞いに病院行ったりしたし……」
「お見舞い?」
 母は怪訝そうな顔をした。
「誰のお見舞いのこと? 姉さんも義兄さんも即死で、入院なんかしてないわよ? おばあちゃんか誰かの記憶とごちゃごちゃになってない?」
「え? いや……」
 透海は口ごもる。――自分の記憶では、あの頃毎日病院に通っていたはずだ。祖母の入院はそれよりももっと前のことだし、見舞いの頻度もさほど多くはなかったように思う。だから混同しているとは思えない。
 だが、透海は肝心なことが思い出せない。――あれは一体誰のお見舞いだったのだろう?
「透海?」
 母親が心配そうに彼女を見つめていた。
「どうかしたの? 顔色が良くないわよ」
「そ、そう?」
「ええ、何だか青いような気がする」
「あお……」
 その言葉が、不意に大きく響いて聞こえた。
 
 あお。
 青。
 ブルー。
 
「透海? 本当にだいじょうぶなの?」
 母の声を振り切るように軽く頭を振り、透海はかろうじて笑みを浮かべてみせた。
「だいじょうぶよ、母さん。宿題の続きしてくるわね」
「無理するんじゃないのよ。今日は早く寝なさい」
 母の声を背中で聴きながら、透海は逃げるように自分の部屋へと駆け戻った。ドアを閉め、電気もつけないまま暗い部屋で荒い息をつく。
 ――どうなっているんだろう。自分は何か、大切なものを忘れている。忘れてはいけなかったもの、忘れたくはなかったもの。どんなにつらくても大切に抱えていたかった記憶。それがすっぽりと抜け落ちて、その後に埋まっていたのは、ただのなまぬるい平凡な日常――これは平和などではない。しあわせでもない。ただ、「何も起きない」ということが約束されただけの……。
 透海はふらふらと窓に近寄り、カーテンをさっと引き開けた。思いのほか強い光が部屋の中に差し込んでくる。
「あ……」
 夜空にきらめく星。美しいはずのそれを、透海は不吉だと思った。怖い、と。
 何故なら、
 そこには、
 ――敵が……、
「それでも……私は捨てはしない。あなたのこと――あなたたちのこと、忘れたくない」
 透海は空を見上げたまま静かにつぶやく。
「だから、どうか――戻って来て」
 ――輝也さん。それから、……。

 瞬きひとつをするとそこは既に見慣れてしまっていた非日常的な景色で、透海はほっと安堵のため息をもらした。そうしながらも眼前に迫っていた高エネルギー爆雷をひらりとかわし、辺りに目を配る。いつも通り、友軍機が三体。そして敵は六体だ。
『何故、戻ってきたんだい』
「久遠くん……」
 脳裏に響く声が懐かしくて、透海は少しだけ喉を詰まらせた。
「歓迎してくれないの?」
『いつだって歓迎しているよ。ディープブルー――いや、北原透海さん』
「…………」
 透海は意識を背後に向けた。それに従い、アークから彼女の脳裏に情報が送られてくる。映し出されるのは巨大な宇宙船の姿。人類を運ぶ巨大な方舟、「ノア」。
『ほんとうにいいのかい?』
 久遠啓、またの名を「エーアイ」十三号「ユダ」――彼はそのシニカルな口調の中に優しさをにじませていた。透海はそれに気付き、微笑む。
「いいの。私はまだ、戦っていけるもの」
 本当は母なる大地などどこにもないと知っていても、
 きっとこの旅には未来などないのだろうと悟っていても、
 それでいて「敵」だけは存在を明確にして襲いかかってくるけれども、
 ――そんなことはどうだっていいのだ。
「久遠くんがいないと、隣の席が空っぽなの。すうすうするのよ、何だか」
『…………』
「それに」
 「ディープブルー」は敵機に飛びかかり、関節接合部に超合金ナイフをつきたてた。
「輝也さんが消えてしまうのは、いや」
 きっと、それは「ノア」の優しさだったのだろう。「現実」の置かれている現状に深く触れてしまった透海がこれ以上苦しまないようにと、彼女を「アーク」の「コア」から外してみせた。すべてを忘れさせ、「夢」の世界にどっぷりとつからせようと――。
 しかし、透海が「コア」でなくなってしまうなら、「ノア」の見る夢である輝也はどうなるのか。
「輝也さんはある意味、私と『現実』を繋ぐ接点なのよ。彼がいる限り、私はきっと『現実』を思いだす。夢から醒める」
『それを防ぐために――「ノア」は輝也という人格を消そうとした。そのことに、君は気付いたのかい?』
 啓は驚いたような口調で言った。
「……だいたいのところはね。危なかったわ」
『…………』
 啓は少し黙った後、くすくすと笑い出す。
『家族愛か――でも、君たちは従兄妹だったよね? 仲良いいなあ、妬けるなあ』
「……何言ってるのよ」
 透海は頬が赤らむのを感じた。
『まあいいさ』
 戦闘は既に終結を迎えている。いつも通りの結末――透海ら、「アーク」の勝利だった。敵機はほとんどが粉々に砕け散って、虚空をちりとなってただよっている。
『君の世界には僕も含まれているみたいだから、それで今は満足しておくよ』
「……当たり前でしょう」
 透海は猛烈な眠気に襲われながらつぶやいた。
「大切な人のいない世界なんて……そんな『夢』なんて、いい夢のはずがないんだから……」
 ――現実がどんな悪夢であろうとも、彼らがいれば頑張れるのだから。
 意識が沈む寸前、彼女は柔らかに微笑む銀髪赤目の少年を見たような気がした……。

 ――電子音がけたたましく鳴り響く。輝也はベッドから腕をつき出し、音源を引き寄せて顔に近付けた。時計の指す時間は、朝六時半。輝也は欠伸を噛み殺しながら体を起こした。
 体が重い。何やら寝すぎた後のような感覚が残っている。
「あれ、そういえば今日って……」
 眼鏡を掛けて視力を取り戻してからカレンダーを確認すると、やはり今日は日曜だった。それなら何故こんな早い時間に目覚ましを掛けたのだろう。
 ――ピンポーン、ピンポーン。
 せわしく鳴り響いたインターフォンの音で、輝也はすべてを思い出す。そうだ、今日は従妹の透海と彼の両親の墓参りに行こうと約束していたのだ。昼間は暑くなるから、朝早いうちに出掛けようと……。朝食は彼の家で食べるつもりなのかもしれない。
「それにしたって早いなあ」
 ぼやきながらも玄関に向かい、鍵を開ける。
「透海ちゃ……」
 ドアが開くやいなや、少女は突然彼に飛びついた。強い力で背中を抱きしめる。
 輝也は珍しくうろたえた。
「ど、どうしたの?!」
「…………」
 透海はしばらく無言で彼の胸に額をおしつけていたが、やがてばっと勢い良く顔を上げた。満面の笑みを浮かべて、
「――おはよう!」
「…………」
 輝也はぱちぱちとまばたきをする。彼女の笑顔はまるで朝日のように、まぶしかった。