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夢幻カサブランカ

 たとえば、こんな日。
 「現実」がとても儚いものに思えて、
 今にも「夢」の中に崩れ去りそうで、
 それでいてとても愛しく思える日――。

 時任哲朗。佐奈子。
 並んだ墓標の前に花を捧げ、輝也は黙祷した。夏の日に照らされて、銀縁眼鏡のフレームが光る。
 両親が死んで十二年。あのとき十五歳だった彼は、今年二十七歳になった。
 もう十二年なのか――まだ十二年なのか。
 実は、輝也は両親の顔がよく思い出せない。交通事故にあったときのショックで、その前の十五年間の記憶がところどころ曖昧になっているようなのだ。
 体より、むしろ心に大きな傷を負った輝也は、立ち直り始めるまでに一ヶ月を要した。その頃ずっと側に居てくれたのは、まだ四歳だった従妹の北原透海だった。彼女は幼稚園に行く以外のほとんど一日中彼の病室で過ごした。いくら彼と仲が良かったとはいえ、ほとんど喋らない彼の側など居心地が良かったわけでもないだろうに、幼かった彼女は一体何故……。
 何か、理由があったのだろうか。だが――思い出せない。
 輝也はため息をついて立ち上がった。蝉の声が降りしきる。

 ――ねえ、お兄ちゃん。

 そらみみが、聞こえた。
 幼い透海の声。高い、澄んだ綺麗な音。
 いつからだろう。彼女が自分のことを輝也さん、と呼ぶようになったのは。そう、たとえばこんな風に――。
「輝也さん」
 どきりとして、振り向いた。ちょうど思い浮かべたのと同じ声がしたからだ。
「透海ちゃん」
 駆け寄ってくる従妹の顔は、うすぼけた思い出の中の幼女の面影を宿している。
「…………」
 墓と輝也の顔を見比べ、透海は表情を少し沈ませた。
「……そんな顔をする必要はないよ」
 輝也は苦笑して彼女の頭に掌を置いた。
「君が僕の両親を殺したわけじゃないんだから」
「そりゃあ、そうだけど」
 彼女の闇色の瞳が、陽光にきらきらと煌いた。
「そうだろう?」
 輝也は笑みを深めて頷く。透海は肩をすくめた。
「電話しても家に居ないから、どこに行ったのかと思って」
「うん」
「で、考えてみたら」
「僕の両親の命日だった?」
「……そう」
「電話したってことは、何か用事があったの?」
 今度は無言で頷き、透海は輝也を見つめた。
「また見たの。あの『夢』を」
 輝也は眉を顰めた。
 しばらく前から透海が見るようになった「夢」。宇宙空間と思しき場所で、青く煌く人型の機体を操り敵と戦う「夢」である。
「気分が悪くなるようなことはないんだね?」
「ええ……」
 透海は頷く。
「その『夢』は、不快?」
「別に」
「じゃあ快感?」
「そんなことはないわ」
 透海はため息をついて空を見上げた。思いのほか眩しかったようで、眼を細めている。
「でもね、輝也さんに知っておいてもらえるだけで気持ちが軽くなるから」
「そう?」
 一人で何もかも溜め込みがちな彼女が、唯一心を吐き出せる場所が彼なのだとしたら――どんな話でも聞いてやろうと思う。
 だって――十二年前、彼女は僕の側に居てくれた。
 透海はぽつり、ぽつりと言った。
「戦争とか、そういうのって嫌いなんだけど。正義の戦争なんてあり得ないし、人が死ぬ限り絶対嫌なものだけど」
「うん」
「でもね、もし自分の大切なものが危機に陥っていて、それを守れるのが私しかいないんだとしたら」
 透海は輝也を見つめて笑った。
「私、ロボットにでも何でも乗って戦うわ。それ以外方法がないっていうんなら」
「…………」
 輝也は静かに微笑んだ。
「うん。君らしいね」
 ――君が命を賭けて守る、大切なものって何だろう。
 もし彼女の言うような事態が起こり得るとして、僕は何を守るだろう。何の為になら命を賭けられるのだろう。
「輝也さん?」
 透海がで彼の眼を覗き込んでいた。輝也は瞬き、聞き返す。
「何?」
「ぼうっとしてない? 大丈夫? 熱射病になっちゃったんじゃないの?」
「まさか」
 笑って首を横に振る。
「大丈夫だよ」
 ゆらり、と立ち上る陽炎。――まるで、「夢」を見ているみたいだ。
 輝也はぼんやりと思う。あの陽炎の向こうには、「現実」があるのではないかと……今自分たちが現実だと思っているものは、本当は「夢」ではないかと。
 昔から時折とらわれるその感覚が、今また不意に彼を襲った。それは、透海が時折口にする「夢」の時のそれとも似ているようで……。
「でも」
 何が「でも」なのかはわからないが、透海は突然そう言った。
「『現実』も『夢』も、相対的なものよ。そうでしょう?」
 そう――それは昔、輝也が言ったことだった。輝也は微笑んで言葉を引き取る。
「外的刺激を受けた感覚器官からのシグナルを脳が受け取って構築したものが『現実』、脳自身がシグナルを発している場合が『夢』。大した違いじゃない」
「どちらにせよ……『私』次第なんだわ」
 透海の言葉に輝也は頷いた。
「そうだね。きっとそんなものだよ」
「……ふふ」
 透海は微笑んだ。
「そう思うと気が楽ね。完全な客観なんて存在しないんだもの」
「そう。主観から離れようとする姿勢は大事だけど、同時にいくら客観を目指しても主観からは逃れられないってことを自覚するのも大切なことだ」
「そうね」
 ――この従妹と、こういう話をしている時間が好きだ。
 輝也は思う。どうでもいいような抽象的な話を繰り広げていると、ああ、言葉があって良かったと思うのだ。抽象的なものを、言葉という概念を矮小化した存在に委託できる。そのことがどれほど精神を豊かにするか。
「そろそろ私帰るね」
 腕時計を覗き込んで、透海はそう言った。夕刻に近づくにつれ強くなった風が、彼女の黒髪を吹き乱す。
「輝也さんは? もう少しここにいる?」
「いや、僕も帰るよ」
 時間の経つのは早いな――そう思って苦笑する。職員会議の間は、ちっとも時間が進まないような感じがするのを思い出したのだ。
 ざくり、と夏草を踏み分ける音。青い匂いが、足元から立ち上ってくる。
 ――こうしてまた、自分は両親から離れていく。彼らの顔を思い出すことすらできずに。
 輝也は不意に感じた寂寥感に、隣りの透海の肩にそっと触れた。
「なに?」
 透海は屈託ない表情で振り向く。輝也は何気ない様子で手を離した。
「そういえば」
 透海は輝也の持ってきた花束を指差した。
「これ、カサブランカね。綺麗」
「うん。お墓に供えるのに向いているかどうかは分からないけど、白くて綺麗だったから」
 そういうところの常識はない輝也である。だが、透海も気にする様子はなく、
「私、覚えてるわ」
「何を?」
「あのね」
 彼女の瞳がきらきらと輝く。
「叔母さんの好きな花だったのよ。カサブランカ」
「……そうだったっけ?」
「ええ。私、お誕生日に花束もらったもの。カサブランカの」
「…………」
 自信たっぷりに頷く透海に、輝也は相好を崩した。
「そうだったんだ」
「そうだったの」
 パサパサと花束を包むフィルムが風にはためく。
 輝也はもう一度呟いた。
「そうだったんだ……」
 そのとき感じた胸の痛み。それは多分――「現実」だった。