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Chapter.III – 24

 廃墟という名は、まさにその場所にこそふさわしい。
 薄暗がりの中、ぽつりぽつりと灯った明かり。それを頼りに、彼は進む。両腕に抱えた少女は、だらりとだらしなく四肢を投げだし、その赤い瞳で宙をじっと眺めているようだった。
「ふう――」
 深いため息。男はある建物の戸を足で押し開け、入った。鍵は掛かっていない。ここにいるのは彼らだけなのだから、必要がない。
 彼は暗い部屋の中を進み、慣れた様子で部屋の奥に置かれたソファベッドへと少女を降ろした。明かりを灯す。
「…………」
 男は黙って、少女を見つめた。彼女はただぼうっと、座っている。表情はない。時折瞬くことと、呼吸のために胸郭が動いていることだけが、彼女が生きているという証だった。
 男は彼女の隣に腰掛け、その銀の髪に触れた。彼女はただ、なされるがままである。
「シエ」
 男は、つぶやいた。
「おれの知らない間に、長い時間が経っていたんだな……」
 もちろん、少女からの返事はない。
 男は――ヨルは、己のこめかみをぴたりと少女のそれに押し当てるようにして、目を閉じた。
 何となく、覚えている。シエの姿をした、しかしシエではないものに撃たれたこと。怪我を負ったまま、彼女によってガラス管の中に投げ入れられたこと。だが、その後がわからない。眠って、眠り続けて――目が覚めた時、あたりは廃墟と化していた。ガラス管の前に座り込んでいた少女、シエ。ヨルがいくらその名を呼んでも、彼女は少しも反応しなかった。まるで、人形にでもなってしまったかのように――否、そもそも彼女は――。
 ヨルは首を軽く左右に振り、唇を噛んだ。
 ここは「ニルヴァアナ」。永遠の楽園であったはずなのに、今現在のこの荒れ果てた様子といったら、どうしたことだ。
 それに、何よりも――。
「何故、おまえが……こんなふうに……」
 ヨルは呻く。シエは何も語らない。一体「ニルヴァアナ」に何があったのか、ここにいたはずの人びとはどこへ行ったのか、ヨルが眠っている間、シエは一体どうしていたのか。彼女は何も語らない。
 「ニルヴァアナ」は、崩壊していた。それだけは、間違いようのないことだった。「楽園」を支えていたシステムもほとんど止まりかかっていたが、倉庫の中には数か月程度なら十分過ごせる量の備蓄食糧などが残っていて、ヨルは飢えずに済んだ。
 目覚めてしばらくの間は、ヨルは必死にシエを起こそうと試みた。だが、何を言っても、何をしても、彼女が言葉を発することはなく、表情を動かすことすらなかった。水やスープを口元に運べば、彼女はきちんと嚥下することができる。だが、それもひどく自動的だった。
 少し前から、ヨルはシエとともに外に出てみるようになった。かろうじて生き残っていた馬が一頭、見つかったためである。シエを置いていく気にはなれなかった。外の光景を見れば――外の風に吹かれれば、シエも元に戻るかもしれない。そんな一縷の望みも、結局はかなえられることはなかったのだけれど。
「…………」
 いつものように、水とスープを彼女の口元に運ぶ。パンは、彼女に咀嚼することができるかどうかがわからないので、与えないことにしていた。喉につまらせでもしたら、助からないかもしれない。
 シエの伏せた睫毛の下から、鮮やかな赤が覗く。かつてはヨルを映してきらきらと輝いていたそれも、今は心なしかくすんで見えた。
 ――「わたしはずっと、ヨルと一緒にいる」
 ――「わたしの中からヨルがなくなったら、それはもうわたしじゃない」
 残響のように思い出す、彼女の声。あれは夢だったのだろうか。いや、むしろ――今もおれはひとり、夢を見ているのではないだろうか。
 おれは、本当はあの時……シエに撃たれた時に、死んでしまって……、
 否、
 もっと前……、
 「ニルヴァアナ」から放り出された子供の時に、死んでいて……、
 ずっと、夢を……醒めない悪夢を……、
「――――!!」
 はっとヨルは体を起こした。いつの間にか、うつらうつらと眠っていたらしい。シエにのしかかるようにして、ヨルはソファに体を横たえていた。シエはおとなしく、ヨルに寄り添っている。その目は、うっすらと開いていた。
 寒い。
 ヨルはシエを抱き寄せ、体を丸めた。毛布を持ってくれば良いのだろうが、動く気にはなれなかった。思えばひどく空腹だったが、それもそのはずで、シエに食事をとらせた後に自分が食べるのを忘れていた。
 ――「ニルヴァアナ」の奴らは皆、どこに行ってしまったのだろうか。ヨルはぼんやりと思う。生きることを許される代わりに、前に進むことを禁じられていたひとびと。一年を眠り、一年を過ごし――それを繰り返すことだけを義務付けられた、かつて世界を滅ぼした咎人の群れ。彼らは、一体どうなってしまったのだろう。何故、自分だけがまだここにいるのだろう。
「やはり、おまえなのか」
 ヨルはシエの頬を撫でる。
「おまえが……おれを……」
 シエは、答えない。
 ヨルは今日出会った少年のことを思い出した。知り合いと良く似ていた。今日の少年のほうが少し若いと思ったが、それも当たり前のことだった。彼は言っていたではないか――それは、自分の祖父の名前だ、と。もし少年のいう「シン」が、ヨルの知るあの「シン」だとしたら……あれから二、三十年は経っているということか。
 いろいろなことが、人が、世界が、どうやら変化したのだろう。それなのに――おれは、何ひとつ変わっていない。まるで、何もかもに取り残されてしまったようだ。
 ヨルは傍らに横たわるシエの顔を覗き込んだ。表情のない白い顔は、まるでつくりもののよう。
「おまえも……」
 ぼそぼそとつぶやく。
「おれをおいて、どこかに行ってしまったのか」
 体は、確かにここにある。だが今のシエは抜け殻のようで、彼女の心は、この中にはない。そのことを思うたび、ヨルの全身はぞっと凍えるのだった。
「なあ、シエ」
 ヨルは、返事などないと知っていながら、それでもなお語り掛けた。
「寒いんだ」
 シエを壊さぬよう、しがみつく。
「もう……おれは……」
 その続きは、声にはしなかった。口にすれば、もう二度と這い上がれないような気がして……。
 絶望。孤独。ヨルはひたひたと迫りくるそれらに背を向け、ただひたすらにシエを抱えて体を丸めた。

 トールとヨルとが時折村の周囲で会うようになってから、ひとつきほどの時間が過ぎた。ヨルはほとんど自分のことを喋らず、ただトールの村の様子をあれこれと聞きたがった。おやつをめぐって妹と喧嘩をした話、母親が新しいシャツを縫ってくれたのだが既に少し肩幅が合わなくなっているという話、幼馴染の少女が最近トールを避けているような気がするというような話――飼っていた羊が一匹、子羊を生んだ話。どんな話でも、ヨルは黙って耳を傾けていた。馬の上には必ず小さな人影が乗っていて、だがその人物の声をトールは未だに聞いたことがない。
「こんな話、おもしろい?」
 あるときふと尋ねたトールに、ヨルは意外そうに眼を瞬いた。
「……何故だ?」
「いや……なんか、いつもおればっかり話してるなって思ってさ」
 トールは短い髪を掻き、困ったようにヨルを見上げた。
「あんたのことは、話してくれないの?」
「……話すようなことは、何もない」
 ヨルは表情を消し、そう言った。
「おれの過去は、空っぽだから」
「でも……あの、ひとは?」
 トールはその時はじめて、ヨルと常に一緒にいるその人物に関して言及した。
「あのひとのこと、聞いてもいい?」
「…………」
 ヨルは目を伏せ、口をつぐんだ。その表情はあまりにも辛そうなもので、トールは慌ててとりなすように口を開く。
「ごめん、言いたくなければいいんだ。いろいろ、あるんだよな? うん」
「……すまない」
「いや、別に謝るようなことは――」
「おまえは」
 不意に、ヨルはまっすぐにトールを見つめた。その昏い輝きに、トールは固唾をのんで彼の言葉を待った。
「おまえの祖父がここに来る前どこにいたのかとか、そういった話は聞いたことがあるか?」
「え……?」
 トールは一瞬ぽかんと口を開けた後、すぐに首を左右に振った。
「直接尋ねたことは?」
「……父さんが、あんまりじいさんに昔のことは聞いてやるなって。村の中では、何となくそういう決まりになっているんだ」
 トールは低く答え、そして反対にヨルに質問を投げかけた。
「ねえ。やっぱりさ、ヨルってじいさんの知り合いなんだよね? でも、いつ知り合ったの? ヨルは村のことを何も知らない。でも、じいさんは村を作ってから、村の外に出たことはない。じゃあ、いつ、どこで出会った?」
「…………」
 ヨルはしばらく黙り込んで、やがてため息混じり小さく笑った。
「――確かに、おれはお前の祖父とは古い知り合いだ。シンが、二十歳くらいの頃のな」
「え……?」
 トールは目を大きく見開いた。今、祖父は六十を過ぎた年齢である。だが、目の前のこの男は――ヨルは、まさにその、二十歳前後にしか見えない。
「どういうこと……?」
「おれたち人間は、かつて償いきれない過ちを犯した」
 ヨルは静かに語り始めた。
「世界は、一度滅びたのだ」
「は?」
「その中から何とか生き延びてきた者たちの末裔が、おまえの祖父だ。胸を張っていい」
「じゃ、じゃあヨルは?」
「おれか? 言っただろう――」
 ヨルは何故かその時、馬上の人を見上げた。まるでそれは父が母や妹を見守っているときに見せるような、そして時にトール自身にも注がれて何となく気恥ずかしくなるような、そういった種類の視線だった。そこに込められた感情の名前は、トールにはわからない。
「過去の亡霊だ、とな」
「…………」
 亡霊だから、歳を取らなかったのだろうか。だから、祖父と知り合いだと言いながら、こんなふうに若いのだろうか。
 トールはヨルの手を取り、手首に指先を当てた。
 ――とくん、とくん、……。
 怪訝そうにトールを見下ろすヨルに、彼は言った。
「生きてるじゃん」
 強い口調で、トールは言う。
「あんた、ちゃんと生きてるよ」
「…………」
 ヨルの手を離すと、彼は茫然とトールを見つめていた。何にそんなに驚いているのか、トールにはわからなかった。
「あのさ……、」
 そろそろ帰らなければ。トールは自分の馬に跨りながら、ヨルに言った。
「今度、じいさんに会ってみたら? 駄目か?」
「……駄目……だと思う」
「会いたくないって、じいさんが言ったわけじゃないんだろう?」
「それは、そうだが」
 ヨルは何か、迷っているようだった。
「あんたのこと、本当にじいさんには言ってないんだよ。村の外に出たことがばれたら、死ぬほど怒られるってわかってるから。でも、このままじゃ、さ――」
 トールは口をつぐんだ。――このままじゃあんた、本当に亡霊になっちゃうんじゃないの。その言葉は、口にはできなかった。
「考えといて!」
 トールは言い残し、村に向かって帰っていく。――その後ろ姿をヨルが途方に暮れて眺めていることには、彼は気付かなかった。

 ――どうしようか、シエ。尋ねても、彼女は答えない。
 ここはいつもの彼らのねぐら。かつて、「ニルヴァアナ」と呼ばれた場所の一角。
 ヨルはシエの隣に身を横たえ、その手首をそっと握っている。トールの真似だった。とくん、とくんと鼓動が伝わる。
「おまえがまだ、『ニルヴァアナ』から自由になれないのは、もしかして……」
 疲れたように、ヨルはつぶやく。
「『ニルヴァアナ』の監視対象が、生き残っているからなのか? だから、おまえはまだおまえに戻れないのか?」
 恐らく、ヨル以外の「ニルヴァアナ」にいた人々は、何らかの理由で既に生きてはいないのだろう。それは勘だったが、おそらく間違ってはいないだろうと思った。例のガラス管も、彼の入っていたもの以外はそのほとんどが割れていて、そこにもやはり誰もいなかった。あれなしで、彼らが何十年も生きていられたとは思えない。
 それならば――。
「最後のひとりは、おれだ」
 ヨルは言う。
「おれで、最後だよな? 『ニルヴァアナ』――」
 シエの濡れたような赤い瞳が、闇の中でちらと瞬いた。