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オン・ザ・ボーダー

 葬儀場の名の書かれたワンボックスカーが、病院に背を向けて走り去る。
「…………」
 深々と下げていた頭を上げ、桐生は踵を返した。傍らで同様に礼をしていた看護師たちも、彼の後に続き病棟へ戻っていく。駐車場に続く扉から吹き込んできた夜明けの冷たい風が、彼の白衣を翻した。
 何故かはわからないが、ひとが息を引き取る瞬間は深夜に訪れることが多い。桐生は眼鏡をずらし、目をこすった。夜中に電話の音で叩き起こされる生活に慣れてはいるものの、不規則な生活リズムが体に負担をかけていることは間違いない。三十代に入ってから、二十代の頃よりもずっと体力が落ちてきているのは自覚していることだった。
「桐生先生」
 看護師のひとりが、不意に彼に声をかけた。
「先生って、急変時には必ず病院に来ますよね。お見送りは当直に任せてもいいのに、どうしてですか?」
 たしかに――「お見送り」と称される死亡した患者の「退院」への立ち会いは、深夜や休日などの時間外であれば病棟当直の医師に任せたとしても何の問題もない。しかし、桐生はそうしようとはしない。必ず自らが死亡診断を下し、死亡診断書を書く。そして、こうやって頭を下げるのだ。
「…………」
 桐生は目を細め、わずかに微笑んだ。
「だって、もう会えませんからね」
 毎晩病棟を回診するとき、桐生は自分の患者ひとりひとりに「また明日」と声をかける。明日退院する患者にも、明日手術を受ける患者にも――明日をも知れぬ意識のない末期癌の患者にも。
「あの人に、もう『明日』は来ないから」
 桐生は先ほど見送った患者の顔を思い浮かべた。最初に彼の外来を訪れた時の顔、癌だと告知した時の蒼白な顔、手術を受けると決めた時の毅然とした顔、手術後の満足げな顔、そして再発がわかった時の愕然とした顔――少しずつ痩せていく顔、むくみを帯びていく顔。土気色の顔。こんなにも思い出せるのは、きっと今だけだ。朝が来て、仕事が始まれば他の患者のことで頭がいっぱいになってしまう。もう、あの患者のことを思い出す機会などそうそうないに違いない。けれど、今は。今だけは。
 看護師はつられたように笑った。
「桐生先生は、やさしいですね」
「…………」
 その言葉に、彼は苦笑いを浮かべた。――これはやさしさだろうか。ただの感傷、それとも、自己満足。今までありがとうございましたと――そう言って頭を下げる家族を目の前にして、自分はよくやったのだと、そう思いたいだけではないだろうか。本当は、元気になった患者を病院を送り出してこその医者なのに。
 ――ポケットの携帯電話が震え、彼はそれを取り出した。普段は鞄の中に置いてくるのに、急いでいたせいか病棟にまで持ってきてしまったらしい。
 新着メールが、一件。

『おつかれさん。桐生も、その人も。』

 ――ああ、そうだ。桐生は思う。「僕ら」は一緒に頑張ってきたんだ。
 だから、僕は……。

『ありがとう』

 見慣れた同居人のアドレスへと、桐生は短く返事した。

 きみと、そしてあの人に。
 ありがとう。